映画案内

 

『黒い土の少女』

 “9歳の少女の孤独と悲しみ”

 山あいの小さな炭鉱町、炭塵で肺を患い退職を余儀なくされ仕事もなく毎日酒をあおっている父、知的障害があって目が離せない2歳上の兄。9歳の少女は、亡き母の代わりに2人を守っていこうと決意する。



 ある時、せっかく買った卵がネズミに食べられてしまう。親切な隣のおじいさんが、「これがあればネズミは寄ってこない」と“猫いらず”(殺鼠剤)をくれる。やがてそれが、少女の人生を切り刻んでしまうことになるなんてまだ誰も知らない。

 寒々とした雪の炭鉱町、閉山・合理化で社宅を追われる人々、カラカラと乾いた音を立て崩れ落ちるボタ山、火の見櫓に上って、意味もわからず半鐘を打ち鳴らす兄、酒場に響く坑夫たちの哀調をおびたアリランの調べ、冷たいレールの上をゴトゴトと走る石炭を運ぶ貨車、兄と一緒に廃屋で仔猫を抱いて無邪気に遊ぶ少女、ゆっくり流れる時間の中で現実が徐々に少女を追いつめていく。

 日本の作品のように、大げさな台詞もわめき散らすオーバーなシーンもない。現実離れした救世主も出てこない。抑えられた台詞で語られているのは、障害者の存在を含め、ごく普通の、どこにでも目にする、しかし時には過酷な日常であり、9歳の少女の孤独で出口のない生活である。

 しかし、日常のワンシーンといっても、ゴッホやモネが描いたすばらしい1枚の絵と同じように、美しい映像から伝わってくる感動は圧倒的である。監督は、フランスで映画芸術を学んだという。確かに、映画もビジネスでしかないアメリカとは違い、芸術性に富んだシ−クエンスはフランス映画を彷彿させる。



 父と兄妹が楽しいそうに雪投げをしたバス停がラストシーンで悲しみのバス停に変わる。知的障害の兄の面倒をみるのが自分の使命と思っていたけど、でもその兄もいなくなり一人になってしまった少女……「わたし、みんなを守る」と心に決めたのに、守れなかった9歳の少女の孤独と悲しみが伝わってくる珠玉の作品である。

           *   *   *


 2007年にベネチア国際映画祭、釜山国際映画祭、マラケシュ国際映画祭(主演女優賞)で受賞し、今年に入っては、3月にスペインのラス・パルマス国際映画祭(撮影賞と観客賞)、スイスのフリブール国際映画祭(国際映画批評家連盟賞など3部門賞)、さらにフランスのドービル・アジア映画祭(グランプリと国際評論家賞)で立て続けに受賞し、8月には第27回イスタンブール国際映画祭の招待作品にも決定している。こんなすばらしい映画が日本で(日本人に)理解されず、したがってほとんど話題にならないのが非常に残念である。(MAK)

★★★★★

『サッドムービー』

   “愛している”数だけ、“さよなら”がある

 韓国手話が出てくる映画「サッド・ムービー」、タイトルどおり悲しい映画ですが、でもその涙は、ペーソスがあってきらきら輝き、想い出としてずっと心に残しておきたいような涙です。



「愛と哀しみのボレロ」のように
 同時進行する4つの愛と別れという構成は、歴史の中で翻弄される人々を描いたフランス映画、クロード・ルルーシュの「愛と哀しみのボレロ」 を彷彿させます。その映画では4つの愛の舞台はパリ、ベルリン、モスクワ、ローマでしたが、もちろん、この映画ではソウルで、時代背景もストーリーの展開も違っています。
 手話ニュースキャスターをしている若い女性と耳の聞こえないその妹、定職に就かず収入がなく、スーパーで買い物をして、そこのレジ係をしている恋人に「代わりに払って」と頼む頼りない青年、それに、「ママの病気は悲しいけれどいつも一緒にいられるからいい」と言う問題児の少年。彼らが織りなす切ない物語は、この映画の宣伝コピーに象徴されています。人はどんなに愛していても、どんなに幸せでも、いずれ生の終着駅に立たなければならないのです。



白雪姫と7人の小人
 手話キャスターの妹は、耳が聞こえないことや顔のやけどの跡を知られたくなくて、ぬいぐるみを着て遊園地で働いています。そんな彼女を白雪姫に見立てて、彼女を見守っているぬいぐるみ仲間の7人の“小人”たち。でも、ついに“8番目の小人”に自分の本当の姿を見せる日がやってきます。
 一方、恋人に捨てられたくなくて、「別れの言葉を本人に代わって伝える仕事」を始めた無職の青年。「仕事を始めた、収入もある!」と恋人に嬉々として伝えたのに、最後の仕事の依頼人はなんと自分の恋人でした。「もう別の道を歩きましょう」という彼女の別れの言葉、それをもう1人の自分に伝えなければならないのです。



せっかく雨になったのに!
 雨が降れば火災が減り、消防士をしている恋人の危険が減ると、いつも雨を望んでいたのに、突然飛び込んできた、工場火災で消防士死亡という臨時ニュース、それを伝えなければならない手話キャスターの残酷な運命と手話に残された最期の別れのことば。
 この映画には誰1人悪い人、嫌な人は出できません。しかも、終わる寸前までみんな愛と幸せを信じて一生懸命生きています。現在の日本では考えられない、思いやりがあって、悲しいけど爽やかさが残る名作です。また、手話や聴覚障害を売りにはしていませんが、手話がわかる人には“楽しい映画”にもなっています。

 なお、韓国の映画やドラマには、聞こえない人だけでなく“障害”を抱えたいろいろな人がよく出てきます(TVでは「ごめん、愛している」「復活」「ホプコーン」など)。日本では、障害者というと特別扱いで、登場するときには「売り」(悪いことばで言えば「人寄せパンダ」)になっていることが多いのですが、これはおかしいですね。社会にはさまざまな人がいて、それぞれ協力しあって生きています。日本より韓国の社会のほうがまっとうだということがわかります。(FMA)

★★★★



 『レイン』  (タイ映画、2002年)

耳が聴こえない殺し屋に悲しみの雨が降りしきる!

騒々しい音楽が突然消え、音のない世界で、仕事を伝える相手の顔と唇だけが動く。耳が聴こえないためいじめられた少年時代、親身になって面倒をみてくれた殺し屋仲間、純真な少女との偶然の出会いと別れ……

「小さい頃からずっと自分を苦しめてきた障害。しかし、苦しめてきたのは障害ではなく社会だと知ったとき、暗殺という反社会的な恐ろしい行為に対してなんの呵責も感じなくなった。しかし、友達ができて、人を愛し、人生をわかちあう喜びを知った。」

 仲間がやられ、1人になって初めて命の尊さを知り、自分が殺した家族の悲しみを思いやる・・・だがもう遅すぎた。自らに向けた最後の銃弾 ・・・

★聴こえない主人公が裏社会で生きるというユニークな設定であるが、この映画では、他の“障害者”も登場し、“障害者”を特別扱いすることなく、社会の中で自然に生きる姿が描かれている。社会は、画一的ではなく、さまざまな人から構成されていることをあらためて認識させられる映画である。

『オアシス』


知的障害をもつ女性のつかの間の幸せを描いた韓国映画「オアシス」はベネチア映画祭で監督賞と新人女優賞を受賞。社会の底辺に目を向けてきたイ・チャンドン監督は韓国新政権の文化観光大臣に就任した(2003.3)




 

『きれいなおかあさん』

(中国映画)

古典的な障害者観で描かれた作品

貧しい生活の中で新聞配達をしながら、聴こえない子供を自分一人の手でなんとか育てようと、困難に出会いながらも懸命に生きる母親の姿を描いた作品。

★「レイン」の場合は、社会の構成員としての“障害者”の生き方や人間関係が軸になっているが、この映画は、“障害”そのものを否定的にとらえ、いかに健常者並にするかに苦労する母親の姿を描いた、いわば古典的な障害者観に立つドラマである。“障害”に対する社会の見方がなお旧態依然たることを考えると、今後もこうした過酷な生活を強いられる母親は後を絶たないであろう。障害をもつ子供もその母親も障害者に対する社会の偏見の犠牲者なのである。したがって、こうした母親を安易に批判することは出来ない。(MA)